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御一代記

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日蓮大聖人御一代記

誕生編 出家編 遊行編
立教開宗編 辻説法編 四大法難編
佐渡流罪編 身延隠棲編 御入滅編

日蓮大聖人御一代記(誕生編)

 日蓮大聖人は、鎌倉幕府の軍勢が、京都の公家政権を圧倒した承久の乱の翌年、貞応元年(1222)2月16日、関東の東端、安房国(千葉県安房郡)の小湊という漁村に生まれた。(承久4年の4月に改元したが一般に貞応元年の生まれとされている。)およそ780年前のことである。

 伝承によれば、幼名は善日麿。幼少の時から学問に心をかけ、また当時の一般世間の信仰に従って、称名念仏によって極楽往生を願うように教えられ育っていった。

そんな日蓮大聖人の系譜については様々な伝説があるが、古い伝記には父、貫名重忠、母、梅菊とあり漁師であったと伝えられるが定かではない。しかしながら少なくとも子供に初等教育を受けさせる余裕のある家庭であったことにはまちがいない。が、日蓮大聖人自身は誇らかに『海辺の漁夫の子である』と言い放ち、それ以上は何も言ってはいない。

日本では、仏教伝来以来、僧侶の世界でも貴族の子弟が重んじられるなど、世俗の序列が大きく反映されていた。その生涯をとおして既成の秩序に果敢に立ち向かった日蓮大聖人は、あえて自らをインド社会では最下層の人びとを意味している『栴陀羅』が子、としか語らなかったのだ。

 現在生誕の地として小湊山誕生寺があるが、建治2年(1276)、日蓮大聖人の入寂6年前に、宗祖と仰ぐ師日蓮大聖人の誕生を記念して建てられたものである。現在の堂宇は、2度の津波などによって流失し現在地に再建されたものである。であるから現在は生誕の地は海に没したと言われている。しかし小湊の鯛ノ浦(妙の浦)には海面からそそり立つ奇岩が容赦のない波濤にさらされている。ここが誠の生誕の地であろうか。

 いずれにせよこの小湊の海辺で幼少時代を送った善日麿は、すぐれた宗教的天分と知的好奇心の持ち主であったようだ。その内面の衝動が彼をして12歳で入山させることになる。

 善日麿、その時、12歳の夏5月、両親の許しを得て、故郷にほどちかい清澄寺に登ることとなった。

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日蓮大聖人御一代記(出家編)

 善日麿、天福元年(1233)12歳の夏5月、両親の許しを得て、故郷にほどちかい清澄寺に登ることとなった。

 寺の本尊は虚空蔵菩薩である。宝亀2年(771)に不思議法師という行者がやってきて堂を建て、虚空蔵菩薩を祀ったのだという。

 そして承和3年(836)、天台座主の慈覚大師円仁が再興し、天台宗に改められた。

 善日麿が入山して薬王丸と名づけられた当時も天台宗の寺であった。房総を代表する山岳霊場だったが、その後、江戸初期に天台宗から真言宗に改宗。醍醐三宝院の別院として関東三門跡の一に列した名刹であった。

 さらに、日蓮宗に改宗したのは、時をへた近年の昭和24年のことである。

 善日麿が少童として寺に入った動機については古来より様々な議論がある。が、宗教的天分と知的好奇心の持ち主であったが故に、その内面の衝動が「広大無辺の知恵ある虚空蔵菩薩。願わくはこの薬王丸を日本第一の智者となさしめ給へ」という大願を立てさせたということにその動機の一端があるのではないか。この智者とは、単に学問優秀という意味ではない。仏法を究めて国と人民を救う者という意味だ。

 法然、親鸞、道元らの鎌倉新仏教の宗祖たちの出家の動機には、家庭的な不幸が大きく影を落としており、また、それゆえにその思想の根底に流れる無常感も深い。

 が、日蓮大聖人だけは、幼少より無常感を抱かせる環境にはなかった。ただ、そこにあったのは真理を究めたいという、燃えたぎるような意志があった。

 鎌倉時代には全国的な浄土信仰のたかまりがあり清澄寺でも念仏の信仰が行われていた。

 16歳までの4年間修行と学問に明け暮れ、念仏僧の道善房というひとを師に出家、得度し、是聖房蓮長の名を受けている。

 しかしながら、修行をすすめるにしたがって蓮長は、心をとらえて離れられない問題が起きつつあったのである。

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日蓮大聖人御一代記(遊行編)

 「遊行」とは学問を学ぶために諸国をめぐり歩くことであるが、まさに蓮長(後の日蓮大聖人)の「遊行」は「求道の旅」であった。

 鎌倉時代のそのころ、仏教は少なくとも外観においてはきわめて盛んであった。奈良時代からの六宗に加えて平安朝の天台宗と真言宗、さらに鎌倉期にはいって念仏と禅が起こり、実に十宗が並んで繁栄していた。

 が、若き蓮長にはそれが納得いかなかった。

 「仏教はひとりの釈迦の教えであるのに、今のように多くの宗派が優劣を争っているのはどういうわけか。これらの各宗派の中でいずれが釈迦の本意にかなった教えであるのか。あるいはこれらの宗派はいずれも釈迦の本意を完全に伝えたものではなく、ほかに釈迦の本意を伝えた教えがあるのではないか。」

 さらにそれに関連した世間の有様についての疑問があった。

 「昔から仏教を奉ずる国は平和であり、信じる人びとは幸福であるはずである。にもかかわらず、国には争乱がはびこり、人びとは不安におののいている。」

 このような現状に接した蓮長は、師に問い、経典にそのこたえを求めたが、その疑問はかえって深まるばかりであった。

 16歳の時、蓮長は、さらなる研鑽をすすめるべく、当時の政治の中心地鎌倉へ清澄寺をあとにし遊学した。

 幕府開設から半世紀を経たこの新都では武士の帰依を受けて禅宗が興隆し、一方民間の間には法然の専修念仏が浸透していた。

 この鎌倉で4年間、時代の空気を吸った蓮長は、仁治3年(1242)、当時の学都比叡山へ遊学の途にのぼった。そのとき21歳。

 24歳にして比叡山横川定光院に住した。25歳になると、三井寺や奈良に遊学し、27歳にして奈良薬師寺の経蔵に入り、さらには高野山、仁和寺、29歳で天王寺、東寺に遊学し、ついに、32歳の正月、今や仏教の僧としてあふれんばかりの歓喜と確信を抱いた蓮長は三井寺を出て、故郷の安房国(千葉県安房郡)の小湊に戻るのであった。

 がこれは単なる帰省ではなくその確信を報告し、「ひとつの信念」をもって新たな道を歩むためであった。

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日蓮大聖人御一代記(立教開宗編)

学問を学ぶために諸国をめぐり歩いた、蓮長(後の日蓮大聖人)は、32歳の春、仏教の僧としてあふれんばかりの歓喜と確信を抱き、三井寺を出て、故郷の安房国(千葉県安房郡)の小湊に戻るのであった。

 この年、建長5年(1253)4月28日の正午、蓮長は、清澄寺の師・道善房の持仏堂の南面で少数の人々を相手にその信念を説き始めた。

 「これを申さば必ず日蓮の命となるべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩を報ぜんが為」(清澄寺大衆中)の、様々な迫害・法難を覚悟のうえの立教開宗であった。

 その日の早朝、清澄山旭ケ森(当時を忍ばせる日蓮大聖人の銅像が昇りくる朝日に向かって合掌しお題目を唱える姿が再現されている。)の一角に立ち、太平洋から暁闇を破って輝き出る太陽に向かって、大音声で、

「南無妙法蓮華経」

とお題目を十度、口に唱えることを初めて行った。

 心の闇は晴れた。改めて身を清めた大聖人は説法の場に向かった。

 「釈迦出世の本懐は『法華経』であり、『法華経』を説くまでの四十余年間に説いたという諸経は、『法華経』を理解させる準備のための方便の経であって、真実の経は『法華経』だけである」。

 そして、『法華経』のすべての威力、釈迦の修行の功徳と、仏の功徳が要約されて備わっている「南無妙法蓮華経」のお題目を、命の通わんほど唱え続けると、その人の居るこの娑婆世界こそが、常寂光土となる、と。

 「念仏、禅などという信仰は、いうほどもない僻見である。すべて『法華経』に帰一すべきだ」と言い放った直後から法難は襲いかかってきた。

 故郷では地頭の東条景信をはじめ人々のほとんどが念仏の信心に凝り固まっていた。彼らは憤り、東条景信は大聖人を殺してしまえというほどに怒った。そのため、大聖人はやがて故郷にいられなくなり再び鎌倉に出ることとなるのである。

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日蓮大聖人御一代記(辻説法編)

 故郷にいられなくなった大聖人は再び鎌倉に出ることとなった。

建長5年(1253)5月、鎌倉に出た日蓮大聖人は松葉谷に草庵(現在の妙法寺)を結び、ここを拠点にその果敢な広宣流布の活動を開始する。

 たとえば【日蓮伝】に名高い小町の辻説法だ。

 大聖人は、その鎌倉の繁華街の辻に立ち(JR鎌倉駅のほど近くに、日蓮大聖人辻説法の碑が建っている。)、火を吐くような情熱を込めて、行き交う人々に念仏や禅を捨て『法華経』に帰依せよ、と呼びかけた。が、その叫びは念仏信仰に凝り固まった大衆の反発・憎悪をかうばかりで、罵倒や投石が絶えなかった。しかし大聖人から見れば、そうなるのもすでに『法華経』に予言されたとおりであると。決意はいよいよ固く、その確信は益々深まるばかりであった。

 では大聖人の他宗批判の根拠はどこにあったのであろうか。

 大聖人は現実を直視する人であった。当時の日本の政治・経済・社会の状況をしっかりと見定め、そこに現出している末法の混乱の原因がどこにあるかをつねに『法華経』に照らして究明し、発言した。

 その他宗批判の『四箇格言』も激烈な標語だが、大聖人には現実的な論拠があった。

  念仏の教主、阿弥陀仏は西方世界の仏。この娑婆世界の教主は釈迦以外にいない(念仏無間)。禅は教外別伝と称して所依の経典を持たずに権力者に取り入ろうとする天魔(禅天魔)。真言の祈祷はうち続く天変地異による災害に何ひとつ現を表していない(真言亡国)。律も貧者を救済すると言いながら、その慈善事業のための資材集めはかえって貧しい人々の犠牲を強いている(律国賊)。

  このような思想・発言は当時の為政者また民衆の心を逆なでした。

 文応元年(1260)7月、北条時頼に「うち続く災難と社会不安は、この国に邪法がはびこっているからだ。このままでは内乱や外国の侵略によって国が滅びるから一刻も早く『法華経』に帰依せよ」と、忠告・予言する警世の書『立正安国論』を献呈した。

 このことにより今後、大聖人の生涯には数々の法難が押し寄せてくるのである。

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日蓮大聖人御一代記(四大法難編)

 文応元年(1260)8月27日、念仏信徒の一団が、鎌倉の松葉谷の草庵(現在の妙法寺)を襲撃し火を放った。いわゆる四大法難の第1『松葉谷法難』である。日蓮大聖人は奇跡的に脱出し、下総に難を避ける。

 しかし、そこに長くはとどまっていない。翌弘長元年(1261)5月再び鎌倉に戻り活動を再開する。が念仏信徒たちの讒言を受けた幕府は、その12日、間髪を入れず大聖人を逮捕し、今度は伊豆・伊東に流罪にした。これがいわゆる第2の法難『伊豆法難』である。

 約2年の伊豆流罪を許された大聖人は、文永元年(1264)10月、父の墓参と母の病気見舞いに、10年ぶりに帰省する。その年の11月11日、地元の信徒・工藤吉隆の館に向かう途中、小松原の大路(現在の鏡忍寺)で大聖人を憎む地頭・東条景信をはじめとする数百人の念仏者の襲撃を受けたのである。第3の法難『小松原法難』である。吉隆と弟子の鏡忍坊の2人が殺され、大聖人自身も左腕を折られ、眉間に刀傷を負った。いよいよ最後かと思ったが、かこうじて命びろいしたのである。

 さらに、文永8年(1271)9月12日に事は、起きた。

 大聖人は、文永5年のモンゴルからの国書到着以来、自らが予言した他国侵逼難(外国からの侵略)の実現の近いことに危機感を抱き、激烈な宗教活動を展開していた。

 とくに、幕閣の深く帰依する真言律宗の僧・忍性を激しく攻撃し、再度『立正安国論』を提出した挑発的な姿勢が幕府を怒らせ、ついに逮捕されてしまう。

 即刻、佐渡流罪という判決が下りたが、内々には護送の途中、幕府の処刑場である龍口(江ノ島の対岸にあった・現在の龍口寺)で首を切る、という決定が下されていた。

 そこで「奇跡」が起こる。大聖人は馬から降ろされ、斬首の座につかされた。太刀取りの武士の手であわや斬られんとしたとき、雷鳴が轟き、太刀取りは、目を眩まし、兵どもも怖じ気づいて、結局、斬首を免れたのである。第4の法難『龍口法難』である。

 そして、大聖人はついに佐渡へと流罪に処されるのである。

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日蓮大聖人御一代記(佐渡流罪編)

文永8年(1271)9月12日、またとらえられ、龍口で首を切られる寸前に、奇跡的に難をまぬがれた日蓮大聖人は、佐渡へと流罪になったのである。佐渡へ向かうにあたり、まず、佐渡守護代、本間重連の館(現在の妙純寺)のある厚木(依智)に護送された。なお、当山は厚木妙純寺の末寺に当たり、非常に縁の深いお寺である。

 天より明星の如くなる星が降ってきたということで、『星下りの妙純寺』とも呼ばれている。当山の山号は本堂の正面に掲げられた額の如く『星川山』という。この名の由来は、私論ではあるが、星下りから川の如く流れてきたということで、『星川山』というのではなかろうかと推察している。

 依智に留まった大聖人は、いよいよ、その年の10月10日、極寒の地、佐渡へと流されたのである。50歳のことである。

 佐渡に着かれた大聖人は塚原三昧堂(現在の根本寺)に住された。翌年正月、念仏者たちがおしかけ法論(塚原問答)となったが、大聖人はことごとく論破され、この問答に立ち会っていた本間重連らも大聖人に対する態度が変わってゆき、帰信する者もでてきた。

 ここでの生活は6ヶ月におよび「我れ日本の柱とならん・我れ日本の眼目とならん・我れ日本の大船とならん。(三大誓願)」と示された、大聖人の書『開目抄』が飢えと寒さにくるしむ中で書かれた。

 大聖人は文永9年(1272)4月に第2の住居、一の谷(現在の妙照寺)に移された。ここで、『観心本尊抄』を著し、現在我々が本尊としてあがめている『大曼荼羅御本尊』を初めて書かれた。

 佐渡での2年5ヶ月間の苦難の流人生活で、大聖人は、「われこそ『法華経』の行者、上行菩薩の再来なり」という信念の芽生えを感じつつあった。そして、『法華経』の予言する苦難をうけながらも、娑婆世界(この世のこと)の未来を現実化すべき使命を担っている、という確信(日本の人を初めとして、全人類を救おうとする慈悲)を、胸に抱くようになり、『法華経』」の題目をとなえることで、現世における救済が可能になると説いたのである。

 1274年、大聖人はモンゴル襲来の直前にやっと許されて鎌倉にもどることができたのである。

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日蓮大聖人御一代記(身延隠棲編)

 文永11年(1274)3月、佐渡流罪を赦免となり鎌倉へ戻った日蓮大聖人は、釈尊誕生の聖日・4月8日に執権北条時宗の命令を受けた、平左衛門頼綱(侍所次官)と対面した。あの龍口で首を斬ろうとした役人であった。

 かつて大聖人が予言した自界叛逆難(内乱)が現実となった今、もうひとつの予言の他国侵逼難(蒙古襲来)について意見を求められた。

 大聖人は「よも今年はすごし候わじ」(撰時抄)と答え、(この年の10月に襲来)さらに「法華経」を信奉し、その正しい教えに従うよう幕府に対し3度目の諌言を行なった。が、信仰よりも習慣化・伝統化している宗派との繋がりを重んじていた幕府は聞き入れなかった。

 ついに大聖人は同年5月「三度、国を諌むるに用いずば、山林に交わる(報恩抄)」の故事にならい、日興上人の教化によって大聖人の門下となった信徒の波木井六郎実長(南部六郎実長ともいう。)が治めていた領地、甲斐の国(現在の山梨県)波木井郷の身延山に隠棲した。

 しかし、大聖人の身延入山は、決して消極的な隠棲ではなかった。令法久住のため、数多くの御書を執筆し、法華経の講義などを通して、未来の広宣流布を担う子弟の育成に、全力を注いだのであった。

 そのようななか、建治2年(1276)3月16日、恩師の道善房が入寂した。大聖人は7月21日「知恩報恩」の大切さを述べられた「報恩抄」2巻を著し六老僧のひとり、日向上人に託して道善房の墓前に捧げたのであった。

 弘安4年(1281)11月24日には、旧庵を廃して十間四面の本格的な堂宇を建立し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名された。

現在の身延山は、西谷に当時住まわれた御草庵後と御廟所(墓所)。菩提梯(287段)を登り切ると大本堂、大聖人を祀る祖師堂、ご遺骨を納めた御真骨堂、仏殿納牌堂、水鳴楼、報恩閣等の大伽藍が建ち並ぶ(文明7年(1475)身延山第十一世行学院日朝上人が現在地に移転)。さらに山頂には、大聖人が遠く離れた故郷の両親や恩師の道善房の墓を拝んだとされる奥の院「思親閣」がある。

 大聖人は身延山に9年間に渡り住まわれたが、弘安5年(1282)病を得て常陸の湯に向かう事となったのである。

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日蓮大聖人御一代記(御入滅編)

弘安5年(1282)9月8日、日蓮大聖人は病身を養うためと父母の墓参りのために身延山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かった。 富士川を北上し河口湖・足柄峠・平塚・瀬谷と富士山の北側をまわる甲斐路を歩まれ11日を費やして同月18日、武蔵の国池上の池上右衞門宗仲公の館(現在の東京都大田区大坊本行寺)に到着した。

 翌19日、大聖人は代筆させて身延の波木井殿に書状を送っている。無事着いたことを知らせるとともに、「日蓮がどこで死のうとも、身延の沢に遺骨を納めてほしい。」と遺言されている。また、乗せてきた栗毛の馬は、良い馬だが疲れているようなので、上総(現在の千葉県)の茂原殿のもとに預けたいとも書き付けている。自身の身が案じられるなか、馬の事まで気を遣われた人間性が感じられる。

 同月25日、一時小康状態を得られると弟子・信者に『立正安国論』の講義をされた。10月8日、大聖人は後事を託すべく六人の弟子を本弟子と定めた。六老僧(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)と言われているお弟子たちである。同月11日には、「経一丸」(後の日像上人)に帝都(京都)弘通を指示している。

 弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、床の間に本尊を掲げ、弟子信者とともにお題目を唱えながら、大聖人は、その波瀾に満ちた61年の生涯を閉じられた。このとき地震が起こり、季節はずれの桜が咲いたという。大坊本行寺には、今でも御会式の時期になると桜の花が咲き誇っている。

同月26日、大聖人のご遺骨は遺言どおり身延の地に埋葬された。

「池上本門寺」は池上宗仲公が、大聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進されたものである。毎年10月11から13日の3日間に亘って、大聖人の遺徳を偲ぶ「お会式法要」が行われ、殊にお逮夜に当たる12日の夜は、「万灯練供養」が行われ参詣者で賑わっている。

 日蓮大聖人のご生涯は『法華経』の弘通に、まさに身命をつくしたものであった。その教えは、750有余年後の今日まで受け継がれている。そして我々も『祖師の誓願』を未来永劫まで受け継いでいかねばならないのである。



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