「遊行」とは学問を学ぶために諸国をめぐり歩くことであるが、まさに蓮長(後の日蓮大聖人)の「遊行」は「求道の旅」であった。
鎌倉時代のそのころ、仏教は少なくとも外観においてはきわめて盛んであった。奈良時代からの六宗に加えて平安朝の天台宗と真言宗、さらに鎌倉期にはいって念仏と禅が起こり、実に十宗が並んで繁栄していた。
が、若き蓮長にはそれが納得いかなかった。
「仏教はひとりの釈迦の教えであるのに、今のように多くの宗派が優劣を争っているのはどういうわけか。これらの各宗派の中でいずれが釈迦の本意にかなった教えであるのか。あるいはこれらの宗派はいずれも釈迦の本意を完全に伝えたものではなく、ほかに釈迦の本意を伝えた教えがあるのではないか。」
さらにそれに関連した世間の有様についての疑問があった。
「昔から仏教を奉ずる国は平和であり、信じる人びとは幸福であるはずである。にもかかわらず、国には争乱がはびこり、人びとは不安におののいている。」
このような現状に接した蓮長は、師に問い、経典にそのこたえを求めたが、その疑問はかえって深まるばかりであった。
16歳の時、蓮長は、さらなる研鑽をすすめるべく、当時の政治の中心地鎌倉へ清澄寺をあとにし遊学した。
幕府開設から半世紀を経たこの新都では武士の帰依を受けて禅宗が興隆し、一方民間の間には法然の専修念仏が浸透していた。
この鎌倉で4年間、時代の空気を吸った蓮長は、仁治3年(1242)、当時の学都比叡山へ遊学の途にのぼった。そのとき21歳。
24歳にして比叡山横川定光院に住した。25歳になると、三井寺や奈良に遊学し、27歳にして奈良薬師寺の経蔵に入り、さらには高野山、仁和寺、29歳で天王寺、東寺に遊学し、ついに、32歳の正月、今や仏教の僧としてあふれんばかりの歓喜と確信を抱いた蓮長は三井寺を出て、故郷の安房国(千葉県安房郡)の小湊に戻るのであった。
がこれは単なる帰省ではなくその確信を報告し、「ひとつの信念」をもって新たな道を歩むためであった。 |