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縁起

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星川山(せいせんざん)

妙福寺縁起

星川山(せいせんざん)

 

 日蓮宗 星川山(せいせんざん) 妙福寺(みょうふくじ)

[所 在 地] 〒240-0054 横浜市保土ヶ谷区西谷二丁目4番1号
[旧本寺名] 厚木妙純寺
[本尊勧請様式]一塔両尊四士 合掌印
[祖  像] 折伏像 宝永2(1705)年製作
[案  内] 相鉄線西谷駅徒歩10分

 

         妙 福 寺 縁 起

慶長(1596-1615)年間の創建である。

開山は隨泉院日意。延宝2年4月15日(1674)寂。開基は第4世長昌院日解。元禄6年5月21日(1693)寂。厚木妙純寺の末寺。
元禄の頃、第6世養泉院日脱(元禄12年2月16日(1699)寂)が住して堂宇を再興した。
山上に堂宇があったのを第37世立法院日壽(明治34年10月13日(1901)寂)の代の明治10年12月本堂、同17年庫裡を現山門内側に再建した。
その後42世取要院日芳(平成5年5月7日(1993)寂)が山門を再建し、本堂(昭和47年落成)、客殿、庫裡等を以前堂宇があった現在の地に再興した。
山門の脇左側に題目碑(宝塔)が在る。第16世啓運院日量(享保18年10月18日(1733)寂)が、享保10年8月16日に建立したもので、本堂に向かって右側の山の中腹に在ったものを嘉永2年2月(1849)第33世日忍が今の地に移した。高さ9尺余りのみごとなものである。
また、現住職第43世泰然院日暁が、山門右側に立教開宗750年を慶讃して寺号碑を建立した。境内地約1万坪

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大日本地誌体系 新編武蔵風土記稿 第四巻 雄山閣

 

新編武蔵風土記稿巻之八十三 都筑郡之三 神奈川領 上星川村 180ページに妙福寺が紹介されている。

 

妙福寺 

年貢地、一段四畝、村の中央にあり、法華宗、相州愛甲郡金田村妙順寺末、星川山と號す、開山は寂靜院日賢と云り、その寂年を傳へず、客殿五間に四間南向なり、本尊三寶を安す、昔よりこの山上に小庵を立置しが、いつの頃か此所へ引て一寺とせり、船橋宗迪が来地にあり、

題目石碑

客殿に向て右の方山の半腹に立り、高さ九尺ばかり、

 

大六天社

除地、一畝、村の中央にあり、村内妙福寺持、

 

意訳

妙福寺 
年貢を納めていた土地。広さ一段四畝(※1)(約420坪・約1388平方メートル)。村の中央にあり、日蓮宗(法華宗)。厚木市金田の妙純寺(妙順寺)の末寺で、星川山(せいせんざん)と称する。
開山は寂靜院日賢上人(※2)と云われ、亡くなった年は不明。
客殿は間口5間(※3)、奥行4間の南向き。
本尊三宝を安置。
昔から山の上に小さい草庵があったが、いつ頃か、ここへ引いてきて1つの寺とした。
医師の船橋宗迪(そうてき?・そうじゃく?・むねみち?)が知行した。

 

題目石碑
本堂に向って右側、山の中腹にあり、高さ九尺(約270センチ)。

 

大六天社
年貢免除の土地。広さ一畝(約30坪)。村中央に位置し、村の中の妙福寺が所有。

 

(※1)
一段は一反と同じ。十畝(せ)は一反。
一畝=約99.1735537平方メートル。
一段四畝は約1388.4297518平方メートル。
1平方メートルは0.3025坪であるので、419.999999919坪。

(※2)
開山上人が違うのは、不明である。

(※3)
1間は約1.81818182メートルなので五間は約9メートル。

 

横浜市史稿 佛寺編 臨川書店

 

第四章 第七節 日宗 二一  852ページに妙福寺が紹介されている。

 

妙福寺
位置  妙福寺は星川山と號し、保土ケ谷區上星川町六百五十五番地に在る。境内は二百三坪。縣下愛甲郡依知村妙純寺の末で、寺格は平僧(※僧が異体文字)八等である。
沿革  創立年代は詳でない。開基初祖を隨泉坊日意と云ふ。風土記稿には寂靜院日賢とあって、寂滅の年月不明である。元禄の頃、養泉院日脱(元祿十二年二月十六日寂。)住して、荒廃した堂宇を再興した。口碑に據れば、古は山上に小庵が在つたを、いつの頃か今の地に移し、一寺としたと云ひ傳へてゐる。しかるに第三十七世日壽の代、明治十年八月三十一日、災厄に罹つて灰燼に歸したが、同年十二月本堂、同十七年庫裡を再建した。其れが今の堂宇である。災厄の砌、舊記等も悉く失はれ、由緒等不明となつた。其後再び荒廢に歸したを、現住光尊が修覆を加へ、今日の觀あるに至らしめた。
本尊  本尊は十界曼荼羅・宗祖日蓮大菩薩である。
堂宇  現今の堂宇は、本堂(桁行三間、梁間三間半、草葺、四柱造。明治十年八月三十一日消失し、第三十七世日壽の代、同年十二月再建した。)・庫裡(桁行七間、梁間三間半、草葺。明治十年八月三十一日消失し、同十七年再建した。)・廊下(桁行三間、梁間二間、亞鉛葺。)・物置(桁行三間、梁間二間、草葺。)・山門(亞鉛葺。)等である。
檀家  檀家は二十戸。
歴代  初祖隨泉坊日意。中興一世養泉院日脱。(元祿十二卯年二月十六日寂。)二世日往。三世日賢。四世中興日解。五世日秀。六世日解。(元祿六酉年五月二十一日寂。)七世日念。八世日解。(元祿六酉年五月二十一日寂。)九世日悟。十世日遙。十一世日脱。十二世日淵。十三世日孝。(寶永五子年十月十八日寂。)十四世日法。十五世日登。十六世日量。(享保十八丑年八月十八日寂。)十七世日觀。(延享四卯年六月十五日寂。)十八世日當。十九世日修。(寶暦三酉年十一月十四日寂。)二十世日壽。(明和二酉年五月十二日寂。)二十一世日照。二十二世日想。二十三世日體。二十四世日妙。二十五世日正。二十六世日想。二十七世日理。二十八世日豊。(文化十二丑年十一月二十日寂。)二十九世日善。三十世日耀。三十一世日光。三十二世日明。(天保九年四月七日。)三十三世日忍。三十四世日柔。三十五世日龍。三十六世日住。中興三十七世立法院日壽。(明治十年八月三十一日全焼。同年十二月再建。明治三十四年十月十三日寂。)三十八世日觀。(大正七年三月二十八日寂。)三十九世日透。四十世泰明院光尊。(現住。)
雑載  山門外左側に題目石碑が在る。享保の頃は、客殿に向つて右の方山の半腹に在つたを、嘉永二年二月、第三十三世日忍の代、今の地に移したと云ひ、高九尺ばかり。



寺号碑 日本庭園 瑞 雲

元日蓮宗管長第81代
池上本門寺貫首田中日淳猊下妙筆の寺号碑

日本庭園  瑞  雲

山門と題目碑 防空壕
山 門と題目碑(左) 防空壕

妙福寺全景

妙福寺全景(航空写真)





妙福寺お題目塔(宝塔)碑文について

平成18年8月31日
(妙福寺檀信徒・中村久雄)

ご依頼の妙福寺お題目塔碑文調査について、私見ながら報告します。
昨年四月末、碑文全体について書き取り調査と写真撮影を行い、これを基本参考資料としてその後解読に努めました。
調査時点での碑文の状態は、塔身部の刻字が大きな字体に加えて彫りも深くはっきりしているのに対して、台座部の刻字は小さく浅い彫りのうえ部分的に風化が進んでいて、判読しにくいものがいくつか出ました。
その一方、塔身や台座各面に刻まれた記年銘の確認から、この塔の創建以来の歩みが証明できたのは収穫でした。即ち享保十年創建→嘉永二年移築再建→大正十四年改立の順です。ほかに造塔に関する願文などは見当りませんでした。

一、塔身部碑文(註・以下太字で記す)

① 正面    南無妙法蓮華経  日蓮

字体─髭曼荼羅風。

石面一杯に溢れるばかりの太く力強い文字です。この彫刻技法は江戸時代中期の特色をよく示しています。


② 右側面    以法守為主生死不苦

字体・隷書─法守を以って主為(た)れば生死苦しからず

法守─おきて・きまりを守る。

為主─主とする。

仏法護持を第一とすれば生死を超越できる、の意か。


③ 左側面    勝機相応九界大導師

字体・隷書─勝機相応して九界の大導師たらん

勝機─道、理に優れる。

相応─瑜伽に同じ・信仰の対象と一体になること。

九界─十界から仏界を除いた迷いの世界。

題目塔

④ 裏面    須弥柱雲能屋祢婦く庵丹は萬の物尓多ら怒事なし。

字体・草書─仮名混じり。

しゅみばしら雲の屋ねふくいおりには、よろずの物にたらぬ事なし。

お題目塔を須弥山に見立て、その天上を大屋根とする我が寺には、何一つ不足する物は無い、と詠める。その文字下方に「当山十六世  日量  花押」の大文字が刻まれ、まことに同上人の気宇壮大な人柄が偲ばれます。

左側に「再建当山三十三世 日忍代 建立之」の追記がある。

二、台座部碑文(字体楷書)

① 正面    惟時  嘉永二巳酉二月十五日  再建寄進  上下惣村中  惣檀中

発願人

苅部佐五右衛門

同  岩五郎

同  辰五郎

同  八  平

河原八五郎

苅部惣右衛門

世話人

苅部五良右エ門

同 八右エ門

中村庄右エ門

寄進連名

依知郷□下

妙純寺

下木谷村

宗川寺惣檀中

世話人  萬蔵

下川井村

栗原藤蔵

下□□村

秋山忠兵衛

□宮村

□□右衛門

座間村

□□右エ門


嘉永二年(一八四九)の再建記録です。保土ヶ谷区郷土史下=昭和十三年刊・妙福寺の項=によると、前出の日忍上人の代のことであり、それまで山上にあった同塔を山門脇に移築した時のものであろう。

当時の村役、檀中の名や関連する寺、人々の名があり、今日にもつながる興味深いものです。特に依知郷は龍口法難に遭った日蓮聖人が佐渡へ出立した故地であり、意義深いものがあります。


② 右側面    十萬部勧進唱行連衆

浄智院妙香日隨

松林院妙道日常

知恩院常栄日儀

善通院妙啓日寿

喜顕院栄学日領

本性院覚源日修

蓮性院妙種日澄

寂性院圓道日法

最傳院不休日悟

隋現院妙信日應

連性院圓量日俊

圓□院妙淳日種

本如院妙□日相

大正十二年九月一日ノ大震災ノ時折ル

大正十四年二月十日改立ス

四十代  日光  山下石工  中村兼吉


前段の十萬部勧進唱行衆の刻字は、字体から見て後出の左側面同刻字であり、同時代のものと思われます。唱行衆とはお題目を唱えながら基金集めに携わった在家の人々であろう。

後段は関東大震災で塔身が半分に折れた時の修理追記です。


③ 左側面

真如院法受日解

法信院道憂日善

秋顕院宗真日久

春光院妙真日長

高月院宗閑日山

同文院宗林日教

院詠月日修

実相院妙行日悦

徳性院道裕日慶

浄信院宗立日徳

知徳院妙勇日進


  享保十乙巳年八月十六日


お題目塔建立落慶日の記録と考えられる。連署している十一の法名は建立を立願した在家の人たちであろう。


④ 裏面

作者  山本久四郎  改

當村  再建石工  苅部伊兵衛


嘉永時の追記であるが、右の作者・山本久四郎、改視の意味が今ひとつ掴めない。



(註)文中、判読できない字は□、疑問推定の字は青字で示しました。

なお塔身右側面の「法守為主」の法と為の字は異体字(写真参照)で活字が無いため、当用漢字を当てました。

 
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